人間は全体で1つの生き物みたいなもの
みたいなことってよく言われますよね
人間社会もそうだし、組織、コミュニティだってそうです
原子が組み合わさって分子になり、分子が組み合わさって目に見えるほどのマクロな「モノ」になるように、個々人が集まった集合もまた、特定の性質を持ちます
超個体というやつですね
社風とか地域性とかがそうです
そして、その性質は常に変化し続け落ち着くところに落ち着きます
淘汰圧に晒され、他の集合と競合し進化していきます
まるで生き物のようにです
LowerLeft.Worksだってそうです
今後どうなっていくのか行く末は僕にもわかりませんが、時代の徒花とならぬよう精進したいと思います…!
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嫌いな奴は嫌いでいい
で、ですよ
社会、組織、コミュニティが1つの生き物のようなものであるならば、嫌いな奴は嫌いでいいと思うんです
離れてさえいればいいんです
例えば、人間の器官で最も繊細な部分は目と口の粘膜です
ちょっとしたゴミや髪の毛が入っただけですぐにわかりますよね
そして、足の裏の皮膚感覚なんかは鈍感です
足の裏が目や口の粘膜のように繊細じゃないからと言って自分の足を切り落とす奴はいません(たぶん)
逆に、足の裏が目や口の粘膜のように繊細だったら一歩も歩けません
違ったっていいんです
それぞれ役割があるんだから
自己啓発なのか、ぁゃιぃ宗教かはわかりませんが、嫌いな人でも愛してあげなさい、仲良くしなさいみたいなことに昔からすごい違和感を持ってたんですよね
それって、自分の口の中に足を突っ込んでヘラヘラ笑ってなさいって言ってるようなものです
どう考えてもおかしいと思ってましたし、今でも思ってます
好きなら好きでいいし、嫌いなら嫌いでいいと思います
人間に好きってこと以上に優れた判断基準なんてないんですから
だからこそ自分と考え方が違う、性質が違う人を非難したり糾弾したりする姿勢は間違っていると思うんですよね
それこそ、自分の足を切り落とすが如き愚行です
自分の考え、性質に無理に賛同させようとする行為も同じですね
建設的な議論であれば有益なんですが
遠すぎる性質は互いに毒にしかならない
例えば、アルカリ性と酸性が合わさると互いの性質を殺し合って中和されます
アルカリ性が悪いわけでもないし、アルカリ性がアルカリ性であろうとする姿勢も悪いわけではありません
同じく、酸性が悪いわけでもないし、酸性が酸性であろうとする姿勢も悪いわけではありません
それでも双方が出逢ってしまったらお互いの性質を殺し合ってしまいます
お互いがお互いにとって毒にしかなりません
そして、誰が悪いわけでもありません
悪いのは相性です
だから、離れてさえすればいいんです
それぞれどこか遠い場所で幸せになって下さい!
人同士でもそうです
相性が悪いということは基本的に性質が遠すぎてお互いに毒にしかならないということなので関わらない方が全然いいです
人同士の相性はタイミングもあるのでもっと複雑な事情になりそうですが……
それでもやっぱり人同士は仲良くしなきゃいけないとがんばってしまうと時間が経つほど状況が悪くなります
間違った努力をし続けると状況は悪くなるばかりです
マイナスになるくらいなら0でいいじゃん!ってことですね
人間は全体で1つの生き物みたいなもの
まぁ結局は、みんなちがってみんないいみたいな結論になってしまうのですが、みんな違うしそれぞれ役割もあるし嫌いな奴、相乗効果を望めない相性の悪い人とは無理に関わらなくて良いんじゃない??ってことですねw
個人としての自分と全体としての自分の視点を持てればわかりやすいのかも知れません
ミクロな個々人で見れば偏っているように見えても、それらが集まれば大数の法則で中道に収束していくのでしょう
最後に松平定信の楽翁公遺書から一節を引用したいと思います
楽翁公遺書
夫れ一人一族一郷邑の善悪願欲或は私にあるも多けれど、億兆の人の皆善とする処は一箇の私心にあらざる故に、皆天下の公理也、天下の公理は則天の心なり、人君一箇の私にかかはらずして、公理を以て心とするにあらざれは、天命を治むとはいひ難し
現代語訳
一人一人の人間の意思、一族一郷一邑の意思それ自体は、至って私利私欲に満ちた、到底理性的とは言い難いものである
しかし、その一人一人の人間や一族一郷一邑の意思が集まって作り出す億兆の意思は常に正しく、私心なき天下の公理としか言いようのないものである
治世者は私心ではなく、天下の公理、すなわち世論を踏まえて治世を行わなければならない
-松平定信